社歴
創設者 横山芳夫
建築家
横山 芳夫
昭和21年4月、戦後の復興期に「建築は、技術・藝術・経済・社会などの諸問題を含んだ創造物であって、
優れた建築物をつくるためには、建築主はその分野に通暁する専門家の協力を必要とする。」と
職能分離、即ち、設計と施工の分離、職業倫理の確立と志し、仙台設計事務所協会を設立。「与えられた仕事は誠実に実行する。」と相互信頼を第一義に横山芳夫が建築設計監理事務所を創業。
創期の頃は、戦後人間が生きるために必要なもの、地域に密接した施設を中心に志津川漁業会魚市場、女川町引揚者寮、石巻漁業修復事務所、気仙沼公共病院、当時、東洋一と言われた超大スパン架構の塩釜魚市場、学制政策による各地の新制中学校などを建築。
昭和30年代に至り、高度経済成長の波とともに、『資産としての建築』・鉄筋コンクリート造に積極的に取り組み、
県下初の本吉町役場、周囲田園の軟弱地盤に対応した浮舟構造の角田市役所、一室開放型の亘理町役場などの官公庁舎をはじめ、
個人住宅にいたるまで、コンクリートの自由な造形的特徴を発揮させた。一方、伝統的な木造家屋にも深く関与した。
建築家
横山 芳明
昭和50年12月に横山芳明が代表取締役・管理建築士となる。
「愛する郷土と、私たちを育ててくれた郷土、その自然のなかにとけこんだ建築を創りだしていくこと、調和のとれた景観を築き、地域らしい風景を残していくことが、私たち建築家に課せられた大いなる使命だと思う。心豊かな日本の伝統を現代に生かし、すべてのひとびとが生き生きと過ごせる、ひとに優しい空間を、思いやりの心で創りたい。」と語り、海辺に宮城県気仙沼合同庁舎、田園に中新田高等学校、利府養護学校、原発の町・女川に大規模な太陽熱パネル空調の生涯教育センター、緑の山波に溶け込む種々の小・中学校。
学校の校舎の片廊下は100競走路ではないと、角々に多目的ルームを設けた異形の仙台中田中学校、生出中学校。
卸町の機能を集積した産業見本市会館サンフェスタ、仙台新港の傍らに、宮城県広域下水道処理センター、鬼首に宮城県森林センター。
平成に入ると、河北新報社気仙沼社屋、協業組合仙台清掃公社組合センター、光の子保育園、仙台理容美容専門学校、宮城県第一女子高等学校百周年記念ホール、仙台楽生園ユニットケア施設群。
宮城県神社庁、満勝寺庫裏・本堂・位牌堂、金華山黄金山神社弁天堂など伝統的建築物の再生、創作、多世代住宅、能舞台つき住宅など、多世代住宅、能舞台つき住宅など、地域に根ざした建築、多様な価値観の建築を主流とした。
プロデューサー
横山 英子
建築家
横山 芳一
平成19年12月、横山英子が代表取締役、横山芳一が管理建築士となる。
「街の御用聞きとして、皆様に愛されるような職人集団を目指し、建築だけではなく、アートや小説、映画や音楽、演劇など、
まちの文化を創造することすべてに関わっていき、東北が育んできた、暖かくて、優しく、美しいものを、
一人でも多くの方に伝えることを使命とする。」と謳い、文化事業も事業の一環として取り組み始める。
ディスプレイ・商品構成・イベント企画運営も携わった秋田ダイニングなまはげ仙台店・ほこだて仏光堂泉店とほこだて仏光堂太白店。
震災後は子ども支援専門組織であるセーブザチルドレンジャパンの委託を受け、被災地域石巻に放課後児童クラブを設計。
登録文化財指定のための調査・申請や左官職人・板金職人との連携による、保存・再生にも取り組む。
東北の魅力があふれるアーティストのガラス照明器具、陶器、小物などを受注・販売するショップを事務所に併設。
被災地支援としてショップ内で「海の手・山の手」の新聞バッグを販売する。
過去の主な作品
育英学園本館
塩釜市新魚市場
育英学園学生寮
亀井 邸
阿部歯科
女川第一中学校
榎戸 邸
服浦島
レストハウス丸森西中学校
日本専売公社
太白出張所宮城県
歯科医院会館鈴木耳鼻科
名取市民会館
茂泉ビル
宮城労働会館
仙台市立
中田中学校サトウ・コクヨ
高橋 邸
三上 邸
南仙台振興ビル
井ヶ田茶屋
植松 邸
交通安全
運転学校岩沼市
第一小学校瀬戸医院
女川魚市場
エノトセーフビル
ロイヤルホテル丹野建設
社屋ビル日本専売公社
作並会議所